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定説を更新する証拠、発明を生む小さな問い、右と左の間にある権利、理想を支える制度、社会を動かす力、文化の継承、行動につながる準備。今週の日中BizNaviで配信した末尾コラム7本を、原文の段落と語り口を保ったまま全文再録します。
今週の編集者コラム一覧
| 日付 | 配信タイトル | 編集者コラムの主題 |
|---|---|---|
| 8月24日 | 定説は終わらない――ポンペイ最後の日から考える歴史の読み方 | 証拠によって更新される歴史の輪郭 |
| 8月25日 | 世界を変えた発明は、小屋から始まった | 発明を生む問いと試行錯誤 |
| 8月26日 | 人権と「左右」が生まれた議会 | 政治ラベルを超えて考える権利 |
| 8月27日 | 夢物語で終わらせないために――イーハトーブと不戦条約 | 理想を現実へつなぐ制度 |
| 8月28日 | 社会を動かした「力」の変遷 ― 8月28日という暗合 | 軍事・映像・市民・アルゴリズムの力 |
| 8月29日 | 城壁はつながっても、文化はつながるか | 建物と無形文化の継承 |
| 8月30日 | 準備は、飛び込むためにある | 準備と行動の往復 |
各日の編集者コラム
2026年8月24日
定説は終わらない――ポンペイ最後の日から考える歴史の読み方
ヴェスヴィオ火山の大噴火によって灰に埋もれた古代都市ポンペイ。その「最後の日」は、長らく西暦79年8月24日とされてきた。
しかし、歴史の定説は永遠に変わらないものではない。
2018年、ポンペイの発掘現場で、壁に残された木炭による落書きが発見された。そこには10月17日を示すとも解釈できる記述があり、「噴火は8月ではなく、10月ごろだったのではないか」という説が注目されるようになった。ただし、現在も8月24日説を支持する研究者はおり、決着したわけではない。
2018年、ポンペイの発掘現場で、壁に残された木炭による落書きが発見された。そこには10月17日を示すとも解釈できる記述があり、「噴火は8月ではなく、秋ごろだったのではないか」という説が注目されるようになった。ただし、現在も8月24日説を支持する研究者はおり、決着したわけではない。
日付ひとつをめぐっても、歴史の見え方は変わる。残された証拠を読み直すことで、これまで確かなものとされていた過去が、別の輪郭を見せることがある。
日本の古代史にも、同じような例がある。
邪馬台国がどこに存在したのかは、現在も畿内説・九州説を中心に議論が続いている。また、天皇の皇統について語られる際には「神武天皇以来2600年以上続いている」という説明がある一方で、神武天皇の実在や、その時代から続く系譜を同時代史料によって確認できるわけではない。『古事記』『日本書紀』は後世に成立した文献であり、そこに記された内容は、神話・伝承・歴史的事実を区別しながら読み解く必要がある。
秦の始皇帝の命を受けて東方へ向かったとされる徐福についても、日本各地に来日伝説が残され、中国の文献にも実在の人物として記されている。しかし、『古事記』『日本書紀』には、徐福来日を裏づける明確な記述はない。
邪馬台国がどこに存在したのかは、現在も畿内説・九州説を中心に議論が続いている。また、天皇の皇統について語られる際には「神武天皇以来2600年以上続いている」という説明がある一方で、神武天皇の実在や、その時代から続く系譜を同時代史料によって確認できるわけではない。『古事記』『日本書紀』は後世に成立した文献であり、そこに記された内容は、神話・伝承と歴史的検証の対象となる事実を区別しながら読み解く必要がある。
かたや秦の始皇帝の命を受けて東方へ向かったとされる徐福には、日本各地にさまざまな来日伝説が残されている。ただし、徐福は中国の史書に登場する人物だが、『古事記』『日本書紀』には、徐福来日を裏づける明確な記述はない。
歴史を読むとき、問われるのは「本当か、嘘か」だけではない。どのような証拠が、いつ、誰によって、何のために「残されたのか」。あるいは何がどうして「残されなかったのか」。そんな背景まで見つめることで、過去は一つの答えではなく、いくつもの可能性を帯びてくる。
ポンペイの街は火山灰に閉じ込められた。けれど、その最後の日はいまも確定していない。定説とは、終着点ではなく、次の発見を待つ仮の輪郭なのだろう。(耕雲)
2026年8月25日
世界を変えた発明は、小屋から始まった
大阪府池田市にある「カップヌードルミュージアム 大阪池田」を、数年前に訪ねたことがある。館内の一角には、日清食品の創業者・安藤百福が自宅の裏庭に建てた"研究小屋"が、実物大で再現されていた。看板こそ「研究所」だったが、中にあったのは中華鍋やボウル、はかりといった、どこの台所にもあるような道具ばかり。掘っ立て小屋と呼びたくなるほど、質素な佇まいだったのを覚えている。
そんな小さな小屋から、世界の食文化を変える発明が生まれた。1958年8月25日に発売された「チキンラーメン」である。安藤が最初に掲げたのは、おいしいこと、保存できること、簡単に調理できること、安価であること、そして安全であること——という理想の商品像だった。塩漬け、乾燥、燻製と試行錯誤を重ねるなかで、突破口となったのは天ぷらの調理法だったという。油で揚げられた天ぷらは、水分が抜けることで内部に小さな穴ができる。その穴にお湯が入り込めば、麺も短時間で元の状態に戻せるのではないか——。この着想から、「瞬間油熱乾燥法」が生まれた。
チキンラーメン誕生までの試行錯誤は、NHK連続テレビ小説『まんぷく』でも描かれた。脚色はあるものの、ドラマが伝えたのは、発明が必ずしも恵まれた環境から生まれるのではなく、失敗の積み重ねの先に生まれるものだという事実である。同じ姿勢は、13年後の1971年に発売された「カップヌードル」の開発にも受け継がれていく。
興味を引くのは発売当初、チキンラーメンの調理時間は「熱湯を注いで2分」だったことだ。やがてカップヌードルが「お湯を注いで3分」という待ち時間を世に広め、それが即席麺文化を象徴する"魔法の数字"として定着していく。チキンラーメンの表記も、後年「お湯かけ3分、煮込んで1分」に更新された。ウルトラマンのカラータイマーではないが、「3分」という時間は、待つ楽しさを含めた商品体験を演出する、いわば即席麺のデフォルトスタンダードとなった気がする。
じつは安藤の事業の歩みは成功続きというわけではない。1975年、日清食品はインスタントご飯「カップライス」に挑んだが、消費者からは「ご飯なら家で炊けばいい」という反応が返ってきた。30億円という多額の投資をした事業からの撤退という、苦い経験である。しかし、その発想自体が消えたわけではない。のちの「カレーメシ」をはじめ、時代が変われば、かつての失敗が新たな価値として花開くこともある。
チキンラーメンが誕生した小さな研究小屋にあったのは、「どうすればできるのか」という問いと、答えを探し続ける姿勢だった。戦後の日本では、各地で似たような光景が見られたのだろう。本田宗一郎は浜松にバラック造りの小さな工房「本田技術研究所」を構えた。客が持ち込む自転車に旧陸軍のエンジンを取り付ける仕事から出発し、翌年には自社開発のエンジンを完成させ、のちの本田技研工業へとつながる一歩を踏み出した。ソニーの創業者・井深大と盛田昭夫は、1946年、東京・日本橋で空襲により焼け落ちた白木屋百貨店の一室を間借りして創業した。乏しい設備の中で磨いた技術力を、のちのトランジスタラジオの実用化・商品化へと結実させている。
池田市のミュージアムにある小屋は、当時の姿のまま、あの日の物語を語り続けている。AIが瞬時に答えを導き出す時代になっても、そこにあるのは変わらず、小さな問いと、答えを探し続ける根気だけだ。。(耕雲)
2026年8月26日
人権と「左右」が生まれた議会
1789年8月26日、フランス国民議会は「人間と市民の権利の宣言」を採択した。自由や平等、人民主権という近代社会の礎となった文書である。そして、この議会は「左翼」と「右翼」という言葉が生まれる舞台ともなった。
当時の議会では、議長席から見て左側に王権の制限と改革を求める急進派が、右側に王権や伝統的秩序を重視する保守派が座った。つまり、「左」「右」という区別は、もともとは思想ではなく、単なる座席の位置を示すものだった。
その後、時代とともに言葉の意味は変化した。左側にいたブルジョア層が保守化して右側へ移り、労働者階級を基盤とする社会主義勢力が左側を代表するようになった。日本では、戦後政治において改憲を主張する勢力を右、護憲を掲げる勢力を左と見る傾向がある。また中国では、社会主義路線を重視する側を「左」、改革開放や市場経済を重視する側を「右」と表現することもある。ただし、その意味は国や時代によって大きく異なる。
問題は、現在の左右論が政策や理念の違いを超え、相手を攻撃するためのラベルになっていることだ。
左側からは「サヨク」「パヨク」「似非サヨク」といった言葉が、右側からは「ネトウヨ」「似非保守」といった言葉が投げかけられる。SNSでは、異なる意見への中傷や罵詈雑言が飛び交い、「向こう側」を見下す過激な決めつけが、社会の分断を深めている側面はないだろうか。さらに、「好き嫌い」による“推し活”的な支持行動が、政策や発言を冷静に検証する客観的な判断を、大いに鈍らせていることはないだろうか。
もし「国営」が左、「民営」が右の価値観ということだとしたら、どうだろう。そんなことを考えたのは、先日、数年ぶりに大学時代の友人から届いた一通の電子メールがきっかけだった。友人は今後、年賀状を出さないという。理由は郵便料金の値上げであり、「サービスは低下するのに値上げが続いた」国鉄末期の時代と重ねていた。郵便局は民営化されて久しいため、その指摘が妥当かどうかは分からない。しかし少なくとも、「国営だからサービスが悪い」という単純な図式が成り立たないことは確かだ。中国では、国有の鉄道会社や郵政企業がサービスの向上に取り組んでいる。
英語で「右」を意味する「right」には、「権利」「正義」という意味もある。だが、それが誰の権利なのか、人権(human right)なのかは、右を名乗るだけでは分からない。ましてや、人びとの暮らしにとっての脅威を「正義」と呼んでよいとは思えない。歴史を振り返れば、差別、貧困、戦争こそ三大悪であるとの認識は、左右を問わず共有できる基本線ではないだろうか。
どうしても「好き嫌い」に固執したいなら、嘘は嫌い、弱い者いじめはいけない、暮らしを脅かす値上げは嫌だ――こうした感覚を共有することから始めたいところだ。結局、問われるべきなのは、どちら側に座っているかではなく、誰のための「right」なのか、ということではないだろうか。(耕雲)
2026年8月27日
夢物語で終わらせないために――イーハトーブと不戦条約
8月27日には、二つの「よりよい世界」への想像が重なっている。
一つは、1896年に岩手県花巻で生まれた宮沢賢治の誕生日。2026年、賢治は生誕130周年を迎える。もう一つは、1928年8月27日にパリで調印された不戦条約――国家が戦争を政策の手段として放棄すると誓った、世界史上初めての条約である。文学と国際政治、まったく異なる場所から生まれた二つの理想が、同じ日付に刻まれている。
賢治は岩手を「イーハトーブ」と呼んだ。それは現実から切り離された空想の楽園ではない。冷害と貧困に苦しむ農村を見つめ続けた賢治が、それでも人間と自然が調和し、互いの幸福を願って生きられる世界を、自らの心象のなかに描き出したものだった。『農民芸術概論綱要』に記された「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、その思想の核心を示している。賢治を単純に「反戦思想家」と呼ぶことには慎重であるべきだろう。しかし、自分だけの幸福ではなく他者を含めた世界全体の幸福を思考の起点に置いた姿勢は、平和を考えるうえで今もなお示唆に富む。
8月27日には刻まれたもう一つの歴史として視線を注ぎたいのは1928年のパリ不戦条約である。第一次世界大戦の惨禍を経験した各国は、国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることを放棄し、条約と外交という平和的手段による解決を約束する。日本もその原署名国の一つだった。国際社会もまた、「戦争のないイーハトーブ」をつくろうとしていたのかもしれない。
だが、その理想はあまりにも脆かった。不戦条約には、違反した国家を制裁する具体的な仕組みが備わっていなかった。理念を謳うだけで、それを守らせる制度を伴わなかったのである。調印からわずか3年後の1931年、満洲事変が起きる。1933年には日本が国際連盟からの脱退を通告し、同じ年、賢治も37歳の若さでこの世を去った。
注目したいのは賢治が見つめ続けた東北農村の困窮と、日本を戦争へと押し出した力学が、実は根を同じくしていたことだ。世界恐慌後の農村が疲弊を極め、「農村更生策」の一環として、「満蒙開拓」が国策として推進された。同じ社会的苦しみが、共感によって理想郷を紡ぐ想像力にもなれば、対外膨張を正当化する政治的動員の材料にもなった。
イーハトーブも、不戦条約も、当時の状況だけを見れば夢物語に終わったと言えるかもしれない。しかし、人間はまず「どんな世界でありたいのか」を想像しなければ、現実を変える方向さえ見いだせない。二つの理想が重なる8月27日は、理想を笑う日ではない。理想を夢物語に終わらせないために、私たちの社会には何が必要なのかを、改めて考える日にしたい。(耕雲)
2026年8月28日
社会を動かした「力」の変遷 ― 8月28日という暗合
8月28日という日付をたどると、不思議な歴史の重なりが浮かび上がる。
1945年のこの日、敗戦から間もない日本に連合軍の先遣隊が到着し、日本は占領期へと足を踏み入れた。当時、社会を動かす「力」といえば、軍事力や国家権力という、きわめて目に見えやすいものだった。
それから8年後の1953年8月28日、日本テレビが本放送を開始した。テレビという新しいメディアが家庭に入り、人々の情報の受け取り方や世界の見方を変え始める。娯楽だけではない。ニュースや広告を広く行き渡らせ、大勢の人が同じ映像を同じ時間に目にする時代が始まった。社会を動かす力に、「映像」という新たな担い手が加わったのである。
さらに10年後の1963年8月28日、米国の首都ワシントンでは歴史的な「ワシントン大行進」が行われ、約25万人が公民権を求めて街頭に集まった。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師はリンカーン記念堂を背に演説し、後に世界中で知られる「I Have a Dream(私には夢がある)」という言葉を残した。ここで社会を動かしたのは、軍隊でも国家でもない。市民の行動と、それを結びつける言葉だった。
こうして振り返ると、8月28日は、「社会を動かす力は誰の手にあるのか」を考えるうえで、興味深い一日である。
そして2026年のいま、上海では「上海国際広告節」がAIとデジタル広告の融合をテーマに開催され、8月28日に最終日を迎える。AIはすでに広告の企画、制作、配信、分析のあらゆる工程に入り込みつつある。
軍事力からマスメディアへ、市民の声へ、そしてアルゴリズムへ――。社会を動かす力は、時代とともに姿を変えてきた。しかもAIの時代、その力はかつてないほど見えにくい。誰がつくり、誰が使い、誰の利益のために働いているのか。
だからこそ私たちに必要なのは、AIそのものを恐れたり礼賛したりすることではない。その「力」が誰の手にあり、社会をどこへ動かそうとしているのかを、問い続けることなのだろう。(耕雲)
2026年8月29日
城壁はつながっても、文化はつながるか
かつて西安駅前では、巨大な城壁が大きく途切れていた。鉄道の開通や駅前整備によって生じた開口部である。2003年から連結工事が進められ、解放門、尚倹門、尚勤門を含むアーチ状の構造が整備され、翌年、城壁は再び全線でつながった。
ただし、これは失われた城壁をそのまま復元したものではない。後世に新たな構造物を築き、物理的な連続性を取り戻したのである。それを「城壁がよみがえった」と見るか、「欠落を埋めた」と見るかは評価が分かれるだろう。それでも、人々が城壁を途切れない存在として歩き、歴史を知り、語り継げるようになったことには意味がある。
日本は、文化財や歴史的建造物を長く遺し続けてきたという印象がある。しかし実際には、多数の文化財や文化的景観の喪失を経験した時代もあった。明治期の廃仏毀釈では寺院や仏像が失われ、戦争では名古屋城、岡山城、広島城などが短期間のうちに焼失した。1949年には法隆寺金堂が火災に遭い、翌1950年には文化財保護法が制定された。同じ年には金閣寺も焼失している。
こうした経緯を振り返ると、文化財の継承は、廃仏毀釈や戦災だけでなく、近年の火災や自然災害によっても繰り返し脅かされてきたことがわかる。2019年のノートルダム大聖堂や首里城正殿の焼失、2023年の京都・東本願寺御影堂門の火災は、文化物の保護と継承の難しさを改めて示した。そして、2016年の熊本地震で甚大な被害を受け、長期の復旧が続いていた熊本城も、2026年7月、再び最大震度7の地震に見舞われ、石垣や建造物に新たな被害が生じた。
一方で、文化の断絶は、火災や地震のように目に見える形で起きるとは限らない。地方経済の地盤沈下や人口流出、少子化によって、祭りの担い手が減り、郷土料理の作り手がいなくなり、職人の技を学ぶ人が見つからなくなる。
建物は、写真や図面を手がかりに再建できる場合がある。しかし、人から人へ受け渡される技や感覚は、伝承が途切れれば容易には戻らない。地方の暮らしのなかで紡がれてきた大小の文化が、人口流出や少子化によってすでに途切れてはいないか。あるいは、途切れかけていることに、私たちは気づいているだろうか。
途切れたあとで、かつてそこにあったものを惜しむのではなく、まだ手渡せるうちに、その価値に気づくこと。文化の未来は、壮大な復元計画だけでなく、今日、誰かが誰かに差し出す小さな記憶のなかにもある。(耕雲)
2026年8月30日
準備は、飛び込むためにある
8月30日は「冒険家の日」であり、同時に防災週間の初日でもある。冒険と防災。一方は未知へ進む話で、もう一方は未知の災害に備える話だが、実は両者の距離はそれほど遠くない。
海洋冒険家が海図も食料も通信手段も持たずに海へ出れば、それは冒険というより無謀である。登山家も天候、装備、ルート、撤退条件まで考えて山へ入る。危険を引き受けるからこそ、準備には人一倍時間をかける。
しかし、準備が100%整う日を待っていたら、おそらく船は永遠に港を離れない。
中国語には**「紙上談兵」**という成語がある。紙の上で戦術を語るばかりで、実戦では役に立たないという戒めだ。日本語なら「畳の上の水練」。泳ぎ方を畳の上で何度練習しても、水に入らなければ泳げるようにはならない。 成语典
防災も同じだろう。立派なBCPを作っても、実際に避難経路を歩いたことがない。非常電源を切り替えたことがない。連絡網を使ったことがない。それでは本番になって初めて不具合を知ることになる。内閣府が防災週間に「より実践的な防災訓練」を求めている理由もそこにある。 防灾大臣官网
仕事でおなじみのPDCAも、Planだけでは一周しない。計画し、まず動き、結果を確かめ、修正してもう一度動く。冒険も事業も防災も、本来はその繰り返しなのだろう。
準備なしに飛び込むのは無謀である。しかし、準備が完璧になるまで待っていたら海には出られない。
必要なのは「準備か行動か」という二者択一ではない。行動できるところまで準備し、行動しながら軌道修正することである。冒険家の日と防災週間が同じ8月30日に重なることは、その当たり前で難しい原則を思い出す、なかなか面白い偶然なのかもしれない。(耕雲)
あとがき
七つのコラムを通して見えてくるのは、過去を読み直すことと、未来へ動き出すことが切り離せないということです。証拠、問い、権利、理想、力、文化、準備。それぞれを受け渡す小さな行為が、次の一歩の足場になります。
関連リンク
使用情報源
- 日中BizNavi noteマガジン(2026年8月24日〜30日配信分)
- ニュースレター|日中BizNavi
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