日中BizNaviに掲載した編集者コラムを、対象期間の7日分まとめました。以下の各本文は、表記、句読点、段落構成を含めて原文のまま収録しています。
8月31日|初音ミク19周年、創作の「未来図」を中国が塗り重ねた
8月31日は、初音ミクの「誕生日」として親しまれている。2007年8月31日に歌声合成ソフトウェアとして発売され、「16歳」のバーチャル・シンガーは2026年で誕生19周年を迎えた。
初音ミクの画期性は、コンピューターに歌わせられることだけではない。ユーザーが曲を作り、別の誰かがイラストを描き、映像を付け、さらに新たな作品へと発展させていく。聴き手を作り手へと変える、いわば「創作の民主化」を象徴する存在だった。
その文化が中国に広がり、大きな発展を遂げて久しい。中国では初音ミクを「初音未来(チューイン・ウェイライ、Chūyīn Wèilái)」と呼ぶ。そもそも「初音ミク」という名には「未来からきた初めての音」という意味が込められている。
中国で独自に育ったボーカロイド文化(歌声合成文化)を象徴する存在が、2012年に登場した洛天依(ルォ・テンイ、Luò Tiānyī)である。動画プラットフォームの哔哩哔哩(ビリビリ、Bilibili)では今もオリジナル曲や二次創作が投稿され、2026年には全国巡回コンサートも行われた。Bilibiliでは、動画の視聴目的のニーズに応えるだけでなく、作品を作り、ファンとつながり、広告やライブ配信、電子商取引などを通じて収益を得る場へと発展した。
中国で独自に育った歌声合成・創作文化を象徴する存在が、2012年に登場した洛天依(ルォ・テンイ、Luò Tiānyī)である。動画プラットフォームの哔哩哔哩(ビリビリ、Bilibili)では今もオリジナル曲や二次創作が投稿され、2026年には全国巡回コンサートも行われた。Bilibiliは、動画を視聴するだけでなく、作品を作り、ファンとつながり、広告やライブ配信、電子商取引などを通じて収益を得る場へと発展した。
さらに快手(クァイショウ、Kuàishǒu)では、短動画やライブ配信とECが結びつき、AIによる台本生成や商品選定など、制作と販売を支援する機能も広がっている。生成AIが創作のハードルをさらに下げたいま、初音ミクが19年前に開いた「創作の入口」は、中国の動画プラットフォームを経て、より多くの人が「見る人」から「作る人」へ変わる世界につながった。
「初音未来」という名は、いみじくも、誰もが創作に参加できる時代の青写真を先取りした、いわば「未来図」そのものだったといえるかもしれない。(耕雲)
9月1日|記憶の賞味期限——防災の日に思うこと
1923年9月1日、関東大震災による死者・行方不明者は約10万5000人に上った。あれから103年。今年の夏は熊本地震、そして千葉や北陸を襲った豪雨と災害が続いただけに、防災の日の意味は例年以上に重い。
中国で暮らす日本人にとって、歴史の暦はここで止まらない。9月2日は1945年、日本が東京湾の戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した日。3日は中国人民抗日戦争勝利記念日である。日本では戦争の記憶を8月で一区切りにしがちだが、中国では9月へと連続する。
日本社会における戦争の記憶が8月のうちに一区切りつけられる傾向があるのは、8月15日の玉音放送がもつ衝撃の強さゆえだろう。加えて、9月1日が新学期の始まり、月の変わり目、そして防災の日に当たっていることも無関係ではないはずだ。巨大地震の記憶があまりに強く前景化されるせいで、その先に続く歴史に目を向ける機会も、結果として細っているようにも見える。
そこにSNSの時代の到来で、その傾向はいっそう強まっている。忘れるというより、記憶が上書きされる。たとえば8月30日、福井県に記録的豪雨によるレベル5の大雨特別警報が発表されるや、高市早苗首相はいち早く自身のSNSを更新し、厳重な警戒を呼びかけた。ところが翌31日、首相官邸は一転、2026年ミス・ユニバース日本代表の表敬訪問の様子を、写真とともに公式発信した。前日の緊張から一夜にして切り替わったこの落差に、戸惑いを覚えたネットユーザーは多かったはずだ。
今週は防災週間にあたる。災害と戦争、ふたつの記憶がともに問われ続けるこの一週間、「記憶をどう次の世代に手渡すか」という問いを改めて突きつけられることになる。
9月2日|「無駄を削る」だけが効率化か。リニア44年の教訓
9月2日は「超電導リニアの有人走行」に成功した日とされる。国鉄(現JR)の営業キロが史上最大に達していた1982年のきょう、国鉄は宮崎実験線で超電導リニア「MLU001」の有人走行に成功した。ただし、その1カ月ほど前には、巨額の赤字を抱える国鉄に対し、地方交通線の整理や分割・民営化への道筋を示す答申がすでに出されている。
1987年、国鉄はJRへと生まれ変わった。効率は上がった。だが、「民営化すればサービスは良くなる」と掲げられた青写真は、いま振り返れば思うほど単純ではなかった。地方では、不採算路線の廃止が止まらなかった。人口減少が鉄道を追い詰めたのか、鉄道の喪失が地域を衰退させたのか——答えは出ない。ドル箱路線の東海道新幹線でさえ、食堂車は消え、車内販売も終わった。
民営化後のリニアがたどった道のりもまた険しかった。半世紀にわたる実験を重ねてなお、実用化には至っていない。2027年開業は幻となり、静岡工区の着工にようやく道筋がついたいまも、開業は2036年以降になる見通しだ。
国有企業主体の中国は、2025年末に高速鉄道網5万キロを突破している。国営か民営かより、公共性と効率、そして未来への投資をどう両立させるかこそが問われている。
有人走行から44年。効率化とは、無駄を削ることだけか。まだ利益を生まない未来に、いまの余力を振り向けてこそ、躍動感あふれる社会を築ける——そんな予感を、多くの人はこの民営化の歴史から感じ取ったのではないだろうか。
9月3日|756号を超えて残るもの――王貞治が「背中」で示した日本の美徳
中国人から「日本人は白人を崇拝する一方で、アジアに対する差別意識がある」と指摘されることがよくある。そのことを初めて意識したのは、いまから35年も前のことだ。東京で知り合った中国人の友人から、国内の五輪報道で欧米のアスリートばかりが脚光を浴びることに違和感を覚える、と告げられたのだ。なぜアジア各国の選手を取り上げないのか、という指摘である。
その場では「差別意識など考えすぎだ」と取り繕ったものの、「ジャパンファースト」といった声が高まるにつれ、これはもはや日本社会全体に根付いた宿痾ではないかと思わざるを得ないこともある。ただ、日本で尊敬を集める華人が少なくないことも、また事実だ。その典型が王貞治さんである。筆者にとっても彼はヒーローの一人であり、少年時代には「ベースボール・マガジン」の付録だった王貞治さんのポスターを、勉強部屋に飾っていたものだ。
王氏から感じ取れるのは、努力、節度、誠実さ、そして野球に対する真摯な姿勢である。一本足打法を磨き上げた膨大な反復練習も、記録を積み重ねてなお驕らない態度も、すべてが「言葉ではなく背中で語る人」だったことを物語っている。中国にルーツを持ちながら、日本人が美徳としてきたものを体現し、監督となってからも理想のリーダーとして敬意を集めた。
いま、日本人自身の「日本」や「日本人」に対する意識が高まっている。だが政治の世界では、「愛国」「伝統」という言葉をことさら口にする人物に限って、実際には「日本らしさ」や「日本の美徳」からかけ離れた振る舞いをしていると感じることが少なくない。「嘘をついてはいけない」「言い訳は控えるべきだ」「誠実であろう」「節度を持って行動しよう」――そうした道徳の基本を思い起こすとき、その正反対の道を歩む人物がリーダーの座に居座ってはいないか。そんな疑問を、拭い去ることができないのである。
今日9月3日は、王貞治氏が通算756号本塁打を放ち、ハンク・アーロンの持つ755本の記録を塗り替えた日である。
9月4日|「トリプル空港」の先輩は大阪だった――関空開港32年
「トリプル空港」の先輩は大阪だった――関空開港32年
1996年、大阪から上海へ向かう「新鑑真号」の船上で、乗り合わせたドイツ人旅行者と言葉を交わした。日本旅行の感想を尋ねると、デパートの接客を絶賛する一方、円高の時代だけに「Too Expensive」と苦笑いしていた。
そして、もう一つ強く印象に残ったのが、「空の玄関」をめぐり、東京には手厳しく、大阪には好意的だったことだ。海上空港である関西国際空港に珍しさを覚えたのか、それとも、鉄道で大阪中心部へ直結する利便性を評価したのか。理由までは聞きそびれた(あるいは思い出せない)。ただ、成田空港ターミナル駅の開業後も、都心部へのアクセスという点では、時間もコストもかかる成田に不満を抱く気持ちは分からなくもなかった。
関西国際空港は1994年9月4日に開港した。きょうで32年になる。翌1995年の阪神・淡路大震災では陸上の交通網が寸断されるなか、開港からわずか4か月しかたっていなかった海上の関空は運航を続けた。救援物資や代替輸送を支える拠点にもなった。ただ、その後は、地盤沈下への対応や、2018年の台風21号による浸水、タンカーの連絡橋衝突など、「海の上に空港を造る」という巨大な挑戦が抱えるリスクも露呈してきた。
それでも国際線の大拠点である関空が魅力を放つのは、空港単体の力だけではない。伊丹、神戸と役割を分担しながら、空港ネットワークを築き上げているからだ。関空―伊丹、関空―神戸の連携は、成田―羽田よりはるかに優れていると言っても過言ではない。
2025年度、関空の国際線旅客数は前年度比8%増の2708万人となり、2年連続で開港以来の年度最高を更新した。国際線の発着回数も年度として過去最高を記録している。外国人旅客数も大きく伸び、開港以来初めて2000万人を突破した。暦年ベースの2025年は2173万人に達している。1994年に始まった「空の玄関」が、30年余りを経て再び記録を更新している。
ただし、日中関係の冷え込みを受け、中国路線には急ブレーキがかかっている。関西エアポートが発表した2026年夏ダイヤでは、国際線旅客便数が前年同期比17%減となる計画のなか、中国路線は前年同期比で約7割の減便という、大幅な供給制約が見込まれている。冬期スケジュールは10月中旬から下旬に発表される見込みだが、さらに縮小するとの声も聞かれる。
とはいえ、一つの国・地域の政治情勢だけで、空港の値打ちが決まるわけではない。海の上に造られた空港は、橋と鉄道で街につながり、今も動き続けている。また、空の玄関の価値は、滑走路の長さだけで決まるものではない。そこから街へ続く交通網の質、さらに言えば、周囲の空港との連携環境も関わってくる。
折しも上海では、「第3空港」と位置づけられる南通新空港の整備計画が具体化しつつある。国の次期5か年計画の重点プロジェクトに盛り込まれ、2027年の着工、年間旅客処理能力4000万人という規模が見込まれる。浦東、虹橋と一体的に運用される計画で、実現すればダブル空港どころか、トリプル空港都市として上海は羽ばたくことになる。
もっとも、「トリプル空港」と聞いて驚くのは気が早い。関空・伊丹・神戸の三空港体制によって、関西はすでにそれを何年も先んじて実践してきたのだから。こと航空行政についていえば、上海が本気で競争相手と目しているのは、東京ではなく、大阪のほうかもしれない。(耕雲)
9月5日|慈善を必要としない社会こそ、最大の慈善ではないか
9月5日、国連は「国際チャリティー・デー」と定める。由来はマザー・テレサの命日。貧困や病に苦しむ人々に目を向け、支援の輪を広げる日である。同じ9月5日、中国でも「中華慈善日」が制定されている。洋の東西を問わず、困っている人に手を差し伸べる意味を問う一日だ。
問われるべきは、その善意が一時の支援で終わるのか、それとも社会を支える仕組みへと育つのか、である。
毎夏恒例の『24時間テレビ』は「愛は地球を救う」を掲げてきた。しかし出演者への高額なギャラ、筋書き通りの「感動」演出、そして2023年に発覚した系列局幹部による寄付金着服――批判はやまない。CSRやメセナも、理念は尊いが、企業のイメージ戦略が前面に出る場面は少なくない。
気になる数字がある。こども食堂は2025年度、全国1万2,602カ所に達した。地域の交流拠点として、その広がりは善意の広がりでもある。だが同じ年、二人以上世帯のエンゲル係数は28.6%、44年ぶりの高水準を記録した。食肉市場でも、値の張る牛肉から豚肉・鶏肉へと需要は移り続けている。
「恒産無くして恒心無し」。生活の基盤が揺らげば、人の心もまた揺らぐ。孟子の言葉は、いまなお重い。
もちろん「艱難、汝を玉にす」とも言う。苦労が人を磨くことは、確かにある。しかし人が困難と向き合うための足場をつくるのは、民間の善意である前に、本来は行政の責務ではないか。
映画・ドラマ『おいしい給食』の舞台は1980年代だ。給食をいかにおいしく食べるかに全力を注ぐ教師と生徒――その笑いが成立するのは、豊かな給食という大前提があってこそ。物語を「こども食堂」で空腹を満たす時代に置くことは、できなかったはずだ。
こうした現実を前にすると、一つの疑問が浮かぶ。いまの日本は、困窮への対応さえ、民間の善意に頼りすぎてはいないか。
慈善とは、余裕のある者が、余裕のない者に施すことなのか。それとも、すべての人が生活の余裕を持ち、自然に他者を思いやれる社会をつくることなのか。
もし後者であるなら――慈善を必要としない社会をつくることこそ、最大の慈善と言えるのではないか。(耕雲)
9月6日|世界一周から七人の侍まで――9月6日に浮かぶ「七」の符合
1522年9月6日、ビクトリア号がスペインのサンルーカル・デ・バラメダに帰還した。1519年にマゼランが率いて出航した遠征は、彼の死後も続き、フアン・セバスティアン・エルカノがビクトリア号を率いて帰国。人類史上初の世界周航を成し遂げた瞬間である。この歴史をたどるうち、ふと「七」という数字に目が留まる。
現代では、地球の海洋は一般に「五大洋」と区分される。一方、世界的な広がりを示す表現として、歴史や文学の世界では古くから「七つの海」という言葉が象徴的に使われてきた。何を七つとするかは時代や地域によって異なるが、「七つの海を渡る」という表現には、世界を股にかけて進む壮大なイメージがある。
ビクトリア号の時代からさらにさかのぼれば、中国には鄭和が1405年から1433年にかけて七度にわたり大船団を率いた航海の歴史がある。中国語で「鄭和七下西洋」と呼ばれるこの航海は、東南アジアからインド洋沿岸にまで及んだ。
古今東西、「七」という数字には、特別な意味が与えられることが多い。日本でも七五三や七福神のように、縁起のよい数字として親しまれてきた。心理学では、ジョージ・A・ミラーが1956年に「マジカルナンバー7±2」という考え方を示し、人が一度に扱える情報量と「七」の関係が注目された。ただし、その後の研究では、保持できる情報量は条件によっておよそ3~5チャンクとする見方もあり、「人間は常に七つを覚えられる」と単純に断定することはできない。それでも「七」が、記憶に残る物語や分類を形づくる数字として繰り返し登場してきたことは確かだ。
映画の世界で「七」といえば、黒澤明監督の代表作『七人の侍』である。
野武士から村を守るため、身分も性格も異なる七人の侍が集まる。終盤、激しい雨の中で繰り広げられる戦闘をはじめ、その緊張感に満ちた映像と構成は、後世の映画に大きな影響を与えた。七人の侍たちは、それぞれ異なる役割と個性を担い、一人として欠けてはならない存在として描かれている。
『七人の侍』がヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したのは1954年のことだった。受賞日は9月6日と確認できないため、日付を結びつけることはできないが、作品はその後も世界各地の映画人に影響を与え、ハリウッドでは『荒野の七人』としてリメイクされた。
そして、1998年9月6日は黒澤明の命日である。黒澤はこの日、88歳で世を去った。
1522年9月6日、世界を一周した一隻の船が帰還した。476年後の同じ日、世界の映画史を変えた監督が世を去った。
七つの海、鄭和の七度の航海、そして七人の侍。
これらは、歴史的に直接結びついているわけではない。けれども、9月6日という一日を起点にたどっていくと、「七」という数字が、海から海へ、時代から時代へと連想をつないでいく。偶然の符合にすぎないとしても、その道筋を歩くことで、私たちは一日の日付から、世界史と映画史をめぐる小さな世界一周へと出発できるのである。(耕雲)