週刊・編集者コラム|2026/09/07〜09/13
2026年9月7日から13日までの日中BizNaviに掲載した「編集後記」「編集者コラム」を、各日の段落構成と文体を保ったまま収録します。
9月7日|CMソングからなぞかけへ――日本語が守ってきた「考える間」
9月7日は「CMソングの日」とされている。1951年、民間ラジオ放送の本格化を背景に、小西六写真工業(現・コニカミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」が放送された。小西六のサクラフィルムを背景に制作されたこの曲には、商品名も社名も歌詞に登場しない。ブランド名を繰り返さなくてもブランドイメージを形成できるという意味で、イメージソングの先駆的な事例と評価されることがある。
サクラフィルムといえば、筆者の記憶に強く残っているのが、1976年に登場した「サクラカラー24」のテレビ広告である。それまで一般的だった20枚撮りを、価格は据え置きのまま24枚撮りに増やし、欽ちゃんこと萩本欽一が「どっちが得か、よーく考えてみよう」と呼びかけた。この広告をきっかけに24枚撮りが注目され、同じ年には富士フイルムも24枚撮りを投入するなど、やがて業界の標準になっていった。
そして、これは筆者自身の記憶の範囲のことだが、競合各社が24枚撮りに追随した後には、欽ちゃんが「どっちが先か、よーく考えてみよう」と視聴者に問いかける別バージョンのCMも流れていた気がする。あいにく、当時の映像や台本など一次資料をネットで確認することができない。だが、「こちらの方が得です」「こちらが元祖です」と結論を押しつけるのではなく、「考えてみよう」と視聴者にボールを投げる巧みなフレーズがいまでも脳裏に刻まれている。何と何を比べるのか、その答えさえ受け手に委ねる。すぐに結論を渡さず、考える余地・余白を残す――そこには日本的な広告表現の作法があったように思う。
さて、私たちは今、SNSの時代を生きている。目にした短尺動画がきっかけとなって有権者の投票行動が動かされたとして、その「切り取り」の巧妙さが社会問題になった例は記憶に新しい。SNSはしばしば「双方向コミュニケーション」と称されるが、コメント欄をのぞけば、恣意的に操作されたとおぼしき声ばかりが並んでいるように見えることもある。受け手は「考える」余地を与えられないまま、いつの間にか醸成された「空気」に流されていく――そうした構図は、かつてマスメディアによる世論形成のあり方が問題視された時代と大差ないように見える。
そんなことを考えていた矢先、お笑い芸人・ねづっちの「なぞかけ」芸の動画が目に留まった。「○○とかけまして、××ととく。その心は、△△です」という定型に、同音異義語やダジャレを即興で組み込んでいく芸である。その芸は、演者ひとりだけで完結するのではなく、聴衆との掛け合いの中で形になる。自分だったらどんな答えを導こうか――そんな考える余地、想像する余白を受け手に残す手法が、どこかサクラカラーフィルムの広告表現と似通っているようにさえ思えた。
切り取り動画が次々に結論を差し出してくる時代だからこそ、すぐには答えを示さず、受け手にひと呼吸分の「間」を渡す表現が、かえって新鮮に映るのかもしれない。「よーく考えてみよう」から「その心は」へ。半世紀を隔てた二つの言葉の間に、日本語が育んできた「考える間」が、かすかにつながって見えるのである。(耕雲)
9月8日|「読める」から「読み解ける」へ――国際識字デー60年に考える
9月8日は国際識字デーである。読み書きの力を世界に訴えるため、ユネスコが1966年に定め、2026年で60年を迎える。基礎的な読み書きが十分でない若者・成人は、今なお7億人を超えるという。
日本では江戸期、寺子屋を通じて庶民にも読み書きが広がった。幕末の識字率を厳密に測ることは難しいが、「往来物」が広く行き渡り、読書の文化が根づいていたことは確かだろう。かつて漢文は東アジアの知識人を結ぶ共通の書き言葉でもあった。1862年に上海へ渡った高杉晋作は、言葉を交わせずとも、清国の文人と筆談で意を通じたとされる。
その共通の文字にも、近代以降は隔たりが生まれた。中国は1956年、《汉字简化方案》によって515の簡化字と54の簡化偏旁を定めた。日本もまた、占領期に米国教育使節団からローマ字化を勧められながら、漢字を残す道を選び、当用漢字表(1946年)と当用漢字字体表(1949年)によって字体の整理と簡略化を進めた。同じ漢字を祖先に持ちながら、簡体字と新字体は少しずつ異なる姿になっていったのである。
今日、AIが翻訳や文字認識を肩代わりし、「読めない」壁はずいぶん低くなった。しかし「読める」ことと「正しく理解する」ことは別の話だ。誰が、なぜ書いたのか。何を強調し、何を伏せているのか。アルゴリズムと生成AIが情報の見え方を左右する時代、そうした問いを手放さない力――メディア・情報リテラシーの重みは、むしろ増している。日本における教育機関への支出のGDP比は3.9%と、OECD平均の4.7%になお届かないと伝えられる。「読める」社会から「読み解ける」社会へ進むために、教育へどの程度の資源を配分するのかも改めて問われるべき課題だろう。
9月8日は、1951年にサンフランシスコ平和条約が調印された日でもある。翌年の発効で、日本は占領を終え主権を取り戻した。その占領下では、GHQの指令によって出版物およそ7,700点が没収の対象になったとも伝えられる。何が残り、何が残らなかったのか。読む力とは、その背後にある制度や力の働きまで見抜く力でもある。「読める」から「読み解ける」へ。国際識字デーは、疑い、確かめ、考える営みの意味を、あらためて見つめ直す日である。(耕雲)
9月9日|数字「9」が映す日中のねじれ
中国で暮らしていると、「9.9元」という価格表示によく出会う。コーヒー1杯が9.9元、時には配達費込みで9.9元ということもある。なぜ10元ではなく9.9元なのか。差はわずか0.1元に過ぎないが、消費者心理としては「10元未満」という印象を与える効果は大きい。いわゆる端数価格であり、外食・小売の世界で広く使われる値付けの手法だ。
だが、9という数字に込められた意味は、マーケティングのテクニックだけにとどまらない。中国の伝統思想において、奇数は「陽」、偶数は「陰」とされ、一桁の奇数の中で最大の9は「陽の極み」と位置づけられてきた。旧暦九月九日は陽が重なる日として「重陽」と呼ばれ、古くから長寿を願う節句とされている。これは「九」の発音が「久しい」を意味する「久」と同じであることに由来し、長く続くという縁起の良いイメージにつながっている。
一方、日本語の「9」には、そうした吉祥のイメージは薄い。「く」という音が「苦」を連想させるため、病室や駐車場の番号で9を避ける習慣さえある。もっとも、日本にも中国由来の「重陽の節句」は存在する。菊の花を用いることから「菊の節句」とも呼ばれ、五節句のひとつに数えられている。数字そのものに国籍はないが、そこに人がどんな意味を見出すかは、言語や文化によって大きく異なることがわかる。
ちなみに日本では、9月9日は「きゅう(9)きゅう(9)」の語呂合わせから「救急の日」とされている。1982年に当時の厚生省が制定した記念日で、救急医療への理解を深める狙いがある。ここでひとつ、知っておきたい違いがある。日本で救急車を呼ぶ番号といえば「119」だが、この119番は火事の通報にも使われる、消防と救急を兼ねた番号だ。ところが中国では、消防は119番、救急車は120番と番号が完全に分かれている。日本の感覚のまま中国で119番にかけてしまうと、つながる先は消防署であり、救急車を呼ぶには120番にかけ直す必要がある。
数字の「9」ひとつを追いかけるだけで、値付けの心理学から言葉の由来、伝統文化、さらには社会の仕組みにまで話はつながっていく。吉にも、苦にも、そして救急にもなる「九」という数字。たどってみると、なかなか奥深い。(耕雲)
9月10日|教師を尊ぶとは何か――「尊師」から「重教」へ
9月10日は中国の「教師節」である。1985年に制定され、「尊師重教」、すなわち教師を尊び、教育を重んじる姿勢を社会全体で確認する日だ。日本にはこれに当たる国の記念日はないが、それは教師を尊ぶ文化がないことを意味しない。日本では医師や弁護士、政治家、作家まで「先生」と呼ばれる。本来、教える者を指す言葉が、知識や経験を持つ人への敬称として広がったこと自体、教師に寄せてきた敬意の大きさを物語っている。
中国語の「老師」もまた、学校教師だけに限らず使われているのは面白い。『論語』に「三人行けば、必ず我が師あり」とある。優れた点から学ぶだけでなく、他人の欠点を見て自らを省みるなら、その相手もまた師となる。上司も部下も、同僚も家族も、我が師になり得るというわけだ。
ただ、時代の推移によって師弟観は変化していく。1922年の童謡「雀の学校」は、先生と生徒の関係が明確だ。一方、1951年の「めだかの学校」では、誰が先生で誰が生徒なのか判然としない。さらに時代は下り、かつて卒業式の定番だった「仰げば尊し」も、年代別調査では60代以上で1位だったのに対し、20代では6位、10代ではランキング圏外となっている。古い文語表現だけでなく、「我が師の恩」を仰ぐ価値観そのものが、現代の学校にはなじみにくくなった面もあるのだろう。
1913年8月、木曽駒ヶ岳で中箕輪尋常高等小学校の修学旅行隊37人が暴風雨に遭い、11人が命を落とした。この遭難事故を題材に、教師の責任や教育への信念を描いたのが新田次郎の『聖職の碑』である。1978年には森谷司郎監督、鶴田浩二主演で映画化された。当時の物語として読むだけなら、そこには教師の献身や自己犠牲という「聖職」のイメージが色濃くある。しかし現代から読み直すなら、別の問いも浮かぶ。教育を支える責任を、教師一人ひとりの使命感や自己犠牲にまで委ねてよいのだろうか。
映画『聖職の碑』は、主人公の「この子たちは私の命だ」というセリフが少し話題になったと記憶しているが、興行的には失敗だったようだ。エンタメ大作との競合など複数の要因があるが、教師の献身や自己犠牲を崇高なものとして描く価値観が、戦後社会の変化との間に距離が生まれつつあったのかも知れない。
いま気がかりなのは、日本が教育をどこまで「社会の共同資産」として支えるかである。OECDの「図表でみる教育20255(Education at a Glance 2025)」によれば、日本の初等教育から高等教育までの教育機関への支出は、2022年時点で対GDP比3.9%であり、OECD平均の4.7%を下回っている。公的支出に限るとさらに低い水準にあるとしたデータもある。もちろん、AIが日常的に学びを支え、教える者と教わる者の境界がさらに緩やかになりつつある中、「教師だけを仰ぐ文化」が求められる時代ではもはやない。しかし、教師が教育に専念できる環境を整え、教師を専門職として支える責任は、社会全体にある。(耕雲)
9月11日|「911」がつなぐ記憶――9.11、上海バス、公衆電話
9月11日と聞いて、まず思い浮かぶのは、やはり2001年の米同時多発テロだろう。今年で25年、四半世紀の節目を迎え、ニューヨークでは今年も追悼式典が営まれる。世界貿易センタービルに旅客機が突入する映像は、その後の世界の姿を変えた出来事として、多くの人の記憶に刻まれている。
あの日の出来事を、当時どう知ったかを振り返ってみると、多くの人にとってはテレビのニュース映像だったのではないか。現場からの映像がスマートフォンで撮影され、SNSを通じて瞬時に世界へ広がる時代の到来は、もう少し先のことになる。YouTubeの誕生は2005年。世界の情報との「つながり方」は、今よりもずっと緩やかだった。
一方、上海で「911」と聞けば、真っ先に思い浮かぶのは路線バス「911路」である。前身は1993年に登場した上海初の二階建てバス路線で、1994年に「911路」と改称された。外灘に近い一帯を起点に淮海路を横断し、上海動物園方面へ向かう路線で、赤い車体の二階建てバスは長らく街の風景の一部となってきた。2001年当時、上海の軌道交通は現在の1~3号線に相当する路線がようやく動き出したばかりの黎明期だった。市中心部を東西に貫く911路は、押しも押されもせぬ幹線バスの一つだった。今年6月13日、911路は再編され、終点は上海動物園までとなったが、「911」の番号は今も市内を走り続けている。
ちなみに9月11日は、日本では「公衆電話の日」でもある。1900年のこの日、新橋駅と上野駅の構内に、日本で初めて街頭の公衆電話が設置された。当時は「自働電話」と呼ばれ、受話器を取って交換手に相手を告げ、交換手が手作業で回線をつなぐという仕組みだった。「自動」ではなく、あくまで人手を介した接続である。「公衆電話」という呼び名が定着するのは、ダイヤル式が導入された1925年以降のことだ。
その公衆電話が、日本では急速に姿を消しつつある。NTT東日本・西日本は2031年度末までに、全国の設置台数を約3万台まで減らす計画を進めている。一方の上海では、ユニークな逆張りとも言える動きがある。街角の電話ボックスを改装し、「Hello老友亭」と呼ばれる新型設備へと生まれ変わらせているのだ。3分間の無料通話、配車サービス、周辺施設の検索、スマートフォンの充電などが利用でき、5Gの小型基地局を備えるタイプもある。高齢者のデジタル格差の解消を意識した設計だという。
日本では、9月11日は「警察相談の日」でもある。全国共通の警察相談専用電話番号「#9110」にちなんで定められた。緊急通報の「110番」とは別に、犯罪かどうか判断に迷うような困りごとを相談するための窓口である。
災害に遭った時、道に迷った時、誰かに助けを求めたい時――人が最後に必要とするのは、必要な相手や場所へ「つながる」手段だ。しかし公衆電話が急減する今、その役割を担えるのは、もはや自分の手元にある携帯端末だけになりつつある。「つながる」ための備えをどこまで自分で用意できるか。その問いへの答えが、今の日本に静かに委ねられているのかもしれない。(耕雲)
9月12日|イコールアース図法が問いかける、「地図」と「情報」の見方
9月12日は、国連の「南南協力の日」である。
ウルグアイの芸術家ホアキン・トレス=ガルシアは1943年、「América Invertida(逆さまのアメリカ)」という作品を描いた。南米を世界の「端」ではなく、自分たちの世界の中心として見るという、文化的・政治的なメッセージを込めた一枚だ。
私たちはふだん、北を上、南を下に描いた世界地図を当たり前のように見ている。しかし考えてみれば、地球上に本来「上」も「下」も、「中心」も「端」もない。
日本から見れば、ヨーロッパは西にある。さらにその西の端に英国がある。 一方、欧米から見れば、日本は極東国際軍事裁判などの呼称に見られるように、東の端、すなわち「Far East」に位置する。「東の端」「西の端」という感覚も、どこを世界の中心に置くかによって入れ替わるのである。
日本にも、そんな発想を実感できる地図がある。
富山県の「環日本海・東アジア諸国図」、通称「逆さ地図」である。
北と南を逆転させ、日本列島を上、大陸を下に置く。日本海を中心に見ることで、日本と大陸との位置関係が、いつもの地図とは違って見えてくる。私たちは、日本海側を「裏日本」、太平洋側を「表日本」と呼びならわす見方に慣らされてきたが、地図を逆さにすれば、その「裏」が正面にも見えてくるわけだ。
どこに視点を置くかで「裏」が「表」に変わる――この発想は、これまで世界の「周辺」とみなされがちだった国々、すなわちグローバルサウスにとっても他人事ではない。9月12日の「南南協力の日」は、そうした国々が知識や経験、技術を分かち合い、互いの課題解決に生かす意義を考える日だが、その直前の9月4日、国連総会では世界地図の表現をめぐる興味深い決議が採択されていた。アフリカなどの面積を実際の比率に近く表す正積図法の活用を促すもので、164か国が賛成、反対は米国1か国、6か国が棄権した。
イコールアース図法は、2018年にボヤン・シャヴリッチ、トム・パターソン、ベルンハルト・イェニーの3人の地図製作者によって考案された正積図法であり、メルカトル図法で“過小表示”されていたアフリカ大陸などの面積比率を、より正しく表すことができる。
ちなみに私たちが見慣れているメルカトル図法は、大航海時代に当たる1569年に考案された。航海には便利だが、グリーンランドなど高緯度になるほど、実際より極端に面積が大きく描かれるという欠点があった。今回の国連決議は、コペルニクス的転回とまではいわないまでも、どの地図を使うかによって同じ世界でも見え方が変わることを、人々に示唆する出来事だったといえる。
そして、このことは、ふだん私たちが接する情報についても重ねて考えることができそうだ。かつては新聞やテレビが「表の情報」を担い、週刊誌などが「裏情報」を掘り下げる、といった役割分担があった印象がある。しかし、インターネットやSNSの時代になり、その境界線はかなり曖昧になった。
どの情報が真相を伝える報道なのか、それとも誰かの意図を伝えるプロパガンダなのか、何があえて報じられていないのか――私たちは、地図を見るときに「どこを中心にしたのか」を考えるように、情報を見るときにも、誰の視点で、何のために、どのような根拠で発信しているのかを見極める必要がある。
かつて人は、未知の海を航海するために地図と羅針盤を必要とした。そして今、私たちは膨大な情報が行き交う「情報の海」を漂流しないよう、自分なりの「羅針盤」を定める必要に迫られている。一つの記事、一つの数字、一つのAI回答だけで、現実を理解したつもりにならないこと。情報リテラシーとは、正解を素早く知ることではなく、自分がいま、誰の視点で描かれたどんな「地図」を見せられているのかを問い続ける力といえるかもしれない。(耕雲)
9月13日|「北斗の拳」の199X年――過去になった年号、続く不安
9月13日は「北斗の拳の日」。1983年のこの日、『週刊少年ジャンプ』で連載が始まった。物語の幕開けを飾るのは、あまりに有名な「199X年」。核戦争によって文明は崩壊し、暴力が支配する世界だ。連載開始当時の読者にとって199X年は、十数年後にやって来る、妙に生々しい近未来だった。それから40年余り。もはや199X年は「来るはずだった近未来」ではなく、「とうに過ぎ去った遠い過去」として記憶の中にある。
SFやパニック作品は、しばしば未来の恐怖に「年号」を与えてきた。ジョージ・オーウェル『1984年』は35年先の監視社会を描き、『ターミネーター2』は1997年8月29日を核戦争の引き金となる「審判の日」とした。『ブレードランナー』が描いた退廃都市は2019年のロサンゼルスであり、『復活の日』では「198X年」に新型ウイルスが世界へ広がる。マヤ暦の終末を扱った『2012』は、その名の通り2012年を人類滅亡の年とした。
年号を示さない作品もある。黒澤明『夢』の一編「赤富士」は、原発事故によって放射性物質に脅かされる人々を描いた。具体的な年はない。それでも2011年の東日本大震災と福島第一原発事故のあと、この作品を現実と重ねて語る声が上がった。未来を「予言」したというより、社会の奥底にあった不安を先取りして映し出していた、と見るほうが正確だろう。
興味深いのは、こうした「恐怖の年」が過去になっても、恐怖そのものは色あせないことだ。
たしかに、2000年問題も、199X年も、『ブレードランナー』が描いた2019年のロサンゼルスも、『2012』が示した破局も、大禍なく過ぎ去った。世界は荒野にはならず、レプリカントが街を歩くこともなかった。けれども、人類が何も経験しなかったわけではない。2020年、世界は新型コロナウイルスによるパンデミックに見舞われた。『復活の日』が描いた「未知のウイルスが文明を揺るがす」という筋書きは、年号こそ外れたが、姿を変えて現実になったのである。恐怖のすべてが的中するわけではない。だが、その一部はたしかに、形を変えて訪れる――人類はこの数十年で、そのことを学んだのかもしれない。
恐怖の変容は、感染症だけにとどまらない。2014年、日本創成会議は人口減少を背景に、2040年までに全国896の市区町村が「消滅可能性都市」となり得ると推計した。一夜で文明が消えるわけではない。学校が消え、商店が閉まり、バスが減り、気づけば町を支える人がいなくなる。世紀末には爆発音が似合うが、人口減少にはほとんど音がない。だからこそ、別の種類の怖さがある。
戦争の姿も変わった。ウクライナでは無人地上車両が偵察や攻撃、物資輸送、負傷兵の搬送までを担う。SFが思い描いた「人間を戦場から遠ざける機械」は、巨大な人型ロボットではなく、小型ドローンや車輪付きの無人機として現実になった。未来は、映画と同じ衣装ではやって来ない。
こうして見ると、ディストピア作品が本当に描いていたのは「未来」そのものではなく、それが生まれた「現在の不安」だったのかもしれない。核戦争、監視社会、感染症、人口減少、機械化された戦争――恐れの対象は変わり、当たった予言もあれば外れた予言もある。けれども、未来に不安を投影するという人間の構図そのものは、驚くほど変わっていない。
「199X年」は来なかった。正確には、来なかったのではない。気づかぬうちに通り過ぎ、遠い「未来」だったはずの199X年は、もうずいぶん昔の過去になったのだ。
では、次の「X年」をどこに置くべきか。
恐怖の一部は、いつか形を変えて現実になるかもしれない。だからこそ大切なのは、終末の日付を言い当てることではない。カレンダーに「X」を書き込んで未来を怖がることでもない。その不安が何を映しているのかを読み取り、まだ「未来」であるうちに、何を変えられるかを考えることだ。
世紀末はとうに過ぎた。それでも、未来はまだ終わっていない。(耕雲)
使用情報源
- 日中BizNavi 2026年9月7日〜13日配信分の「編集後記」「編集者コラム」
