
「まつもとぉ~」と「上海・大連の声」——効率が消す声、郷愁が残す声
松本駅の独特なアナウンスと、上海・大連の駅放送を比較する。効率化が消し去ろうとしている「声」の中に、都市の記憶と郷愁が宿っている。
駅到着のアナウンスを「録る・集める・語る」という行為は、単なる趣味の域を超えて都市の記憶を保存する営みでもある。JR松本駅の「まつもとぉ~」が40年の歴史に幕を閉じた背景、上海地下鉄を代表する声が静かに置き換えられてきた経緯、大連の多言語放送が縮小されるまでの顛末——公共の音声は何を映し、何を失うのか。
1|「音鉄」が耳を澄ます理由
列車がホームに滑り込む。スピーカーが一拍の間を置いて、息を吸い込むように鳴り始める。その瞬間、耳を立てる人々がいる。いわゆる「音鉄」たちだ。彼らが採集するのは発車メロディだけではない。アナウンスの言い回し、絶妙な間合い、イントネーションの揺れ、ホームに広がる残響——それらすべてが「その駅ならではの風景」として記録される。
日本では、こうした営みがニュースになることすらある。設備更新で名物アナウンスが失われるとき、惜別のムードは「音の終活」とでも呼ぶべき様相を帯びる。音は目に見えない。それなのに、消えると街の輪郭がほんの少し薄れたように感じる。その喪失感を、多くの人が共有しているのだ。

2|40年続いた「まつもとぉ~」が終了
問題を象徴するのが、JR松本駅の名物アナウンスだろう。「まつもとぉ~、まつもとぉ~」——語尾を長く引いた独特の響きは、1985年頃の収録以来、約40年にわたって乗客を迎えてきた。声の主は、『アルプスの少女ハイジ』のナレーションで知られる声優、沢田敏子さん。当時、国鉄から「他とは違う雰囲気を」という注文を受け、北アルプスのやまびこをイメージしながら試行錯誤を重ねた末に、あの抑揚が生まれたという。
2025年11月16日、放送機器の老朽化を理由に、このアナウンスは終了した。翌17日の始発からは、沢田さんの声に寄せて新たに収録された向山佳比子さんの声へと切り替わった。その後、松本市が音声データを無償で譲り受け、駅の東西自由通路で「まつもとぉ~」を存続させる方向となった。終了の知らせから一歩遅れて、記録と継承への動きが始まったのだ。
ここで重要なのは、「声優の声」が駅体験を根底から規定していたという点である。沢田さんの放送は、単なる案内音声を超えて、声そのものが固有名詞化し、土地の記憶を刻む装置として機能してきた。運営側が安全上の理由から録音行為に注意を促したことは、公共空間における「共有音」が同時に個人の「収集対象」ともなりうる緊張関係を映し出している。声は案内であると同時に、土地の情緒を支えるインフラなのだ。
参照:声の主・沢田敏子さんが初めて松本駅を訪れた日(FNN)

3|中国地下鉄、標準化と方言のはざまで
中国にも鉄道ファンはいる。録音や投稿も盛んだ。ただし、国鉄や高速鉄道では安全案内の標準化が徹底されているため、日本のように「駅ごとの名物フレーズ」が広く定着する土壌は生まれにくい。
一方で、都市生活に密着した地下鉄の次駅案内放送は、独自の文化を育みやすい。上海における方言の扱いは、その好例だろう。16号線では開通後、普通話・英語・上海語の順で方言放送が試みられ、17号線でも同様の試みがなされた。
興味深いのは、上海で案内の「聞き取りにくさ」自体が社会問題として浮上した点だ。音量が基準(76〜82デシベル)を下回る、騒音にかき消される、表示が機能していない——こうした乗り過ごしへの不満が可視化され、運営側が音量基準や改善策を公表せざるを得ない局面も生まれた。

4|上海地下鉄の声の系譜
上海地下鉄の文脈で欠かせないのが、金蕾(ジン・レイ)という存在だ。上海人民広播電台のアナウンサーで、地下鉄開業期からすべての路線の中国語・英語放送を一人で担い、「上海地鉄第一女声(上海地下鉄を代表する声)」と称された。
だがその声は、静かに、しかし確実に主役の座から退いている。2013年頃を境に切り替えが進み、普通話の放送は孫暢(スン・チャン)へ、英語放送は呉思源(ウー・スーユエン)へと順次移行した。さらに2020年9月、上海語放送の担当として牛美華(ニウ・メイホワ)が加わった。当時57歳、上海人民ラジオ放送局のアナウンサーだった牛は、16号線と17号線の上海語放送を録音し、とりわけ浦東国際空港から市内へ向かう乗客たちを、地元の言葉で迎え入れる役割を担った。
こうした更新の話題は、ファンコミュニティにおける「どこで聞けた」という記録交換と結びつき、流動性そのものが関心の対象となる。この構図は、沢田敏子の駅放送が「残る駅/消える駅」として語られた日本の状況と、どこかで響き合っている。声は、更新されることで近代化を示し、残ることで郷愁を呼ぶ。鉄道は「移動」の装置であると同時に、「記憶」の装置でもあるのだ。

5|大連5か国語放送はなぜ消えた?
中国の中でも、大連の地下鉄は一時期、多言語放送で注目を集めた。地元紙が報じたところでは、中国語・英語・日本語・韓国語・ロシア語の5言語による放送が2017年から実施され、港湾都市ならではの国際性を体現した取り組みとして評価された。
しかし多言語化は善意だけでは成り立たない。「長い」「うるさい」という市民の声が積み重なり、2023~2024年にかけて、ついに中国語と英語の2か国語だけとなった。利便性の最適化が、ときに「文化の厚み」を削る。公共の音声は崇高な理念よりも、日々の混雑と苦情によって形を変えていく——そうした現実の上に、駅の声は立っている。

音から蘇る街の記憶
駅アナウンスは情報伝達の道具である。しかし同時に、その土地の言語観、近代化の速度、生活者の我慢の限界さえも映し出す鏡だ。
松本の「まつもとぉ~」が惜しまれたのは、あの音が旅情を運んでいたから。上海で金蕾が語り継がれるのは、音声の更新が都市の新陳代謝そのものだから。大連の多言語放送が縮小されたのは、公共サービスが「最適化」という名の削減と常に隣り合わせだから。
耳を澄ませば、駅はただの通過点ではなくなる。人は場所を目で覚える。だが、街を忘れないのは、いつも耳のほうだ。
◉参照情報源
TBS NEWS DIG「『まつもとぉー』11月16日までで聞き納め JR松本駅の列車…」2025-10-29: https://newsdig.tbs.co.jp/articles/sbc/2257129?display=1
FNNプライムオンライン(長野放送)「『まつもとぉ~まつもとぉ~』"声の主"沢田敏子さんが初めてJR松本駅へ…」2025-11-05: https://www.fnn.jp/articles/-/955957?display=full
東方新聞(eastday.com)「上海地鉄滬語報站是搿位播音員録制個!語言専家講」2022-01-23: https://j.eastday.com/m/1642950186030337
解放日報・上観新聞「"上海地鉄坐過站的原因找到了"上熱捜!我們実測了10条線路」2023-05-10: https://www.jfdaily.com/wx/detail.do?id=610871
大連晩報(Webアーカイブ)「地鉄車站全部用中英日韓俄五国語言報站」2017-06-08: https://web.archive.org/web/20190928102743/http%3A//szb.dlxww.com/dlwb/html/2017-06/08/content_1366793.htm?div=-1
人民網「領導留言板」: https://liuyan.people.com.cn/threads/content?tid=19958724